イギリス植民地時代のシンガポール〜現在に残る影響とは?〜

イギリス植民地時代のシンガポール〜現在に残る影響とは?〜

イギリス植民地時代のシンガポール〜現在に残る影響とは?〜

イギリス東インド会社総督のラッフルズ郷が、シンガポールの地政学的価値に着目し、19世紀に植民を開始。無関税の自由貿易港を開設し、東西貿易の拠点にしました。インド、オーストラリア、中国大陸との交易がさかんになり、マレー半島で産出される天然ゴムやスズの一大輸出拠点になりました。名称も元々の名称シンガプーラから、イギリス人が発音しやすい英語風のシンガポールに改められました

 

東南アジア有数の多民族国家に

スズ鉱山、天然ゴム農園、港湾などでの働き口を求め、中国、インド、インドネシアなどから大量の移民が流入しました。今のシンガポールが多民族国家なのはこのためです。特に中国からの移民が多く、1840年には元々住んでいたマレー人を超えて中国人が過半数を占めるようになりました。

 

※現在シンガポールのおおよその民族比率は中国系:マレー系:インド系で7:2:1です。多民族国家になると民族間のいざこざは問題となりましたが、ラッフルズは居住地を振り分ける棲み分け政策を実施し、民族間の対立を防止しました。

 

シンガポールの黄金期

1858年にイギリス東インド会社が廃止され、代わって植民地政府が支配することとなりました。1869年にスエズ運河が開通したことで、東アジアとヨーロッパを繋ぐ貿易路の中継点となり、これまで以上にシンガポールの重要性が高まりました。貿易額は何倍にも膨れあがり、シンガポールは黄金期を迎えました。
ただし、マレー人や中国系移民を始めとした現地住民の権利はおろそかにされ、イギリス本国の隷属下にあり、不満が高まっていました。イギリスは反英運動や独立運動を徹底的に取り締まり弾圧しました。

 

自治の獲得

第二次世界大戦が勃発すると、日本軍に占領されイギリス支配が中断しましたが、日本降伏語はすぐにイギリス支配が回復。しかし再燃した独立運動を抑える力は、第二次世界大戦で疲弊したイギリスにはもうありませんでした。1959年に自治権を認め、植民地としてのシンガポールは手放すこととなったのです。

 

現在に残る影響は?

1世紀半続いたイギリスの植民地支配の影響は色濃く残っています。まず公用語の1つに英語が採用されており、教育やビジネス現場での共通語としても圧倒的に英語が使われています。イギリス統治時代に建てられた英国様式の建築物が数多く残されています。

トップへ戻る